著者/深澤 勝
自分の生きざまを書き記し、家族や友人、 そして故郷の自然へ”感謝” の気持ちを伝えたい。
うれしくて涙が出たばい
焼きものと農業の里として知られる波佐見町。
四方を緑豊かな山に囲まれ、田んぼや畑、裏山に続く土の小道、小さな沢など、昔ながらののどかな風景があちらこちらに残っています。
そんなまちで生まれ育った深澤勝さん。
自分史『ふるさとの風』には、戦後、貧しくもたくましく生きた子供時代から、75歳の現在に至るまで印象に残った出来事が深澤さんらしい飾らない文章でイキイキと綴られています。
なかでも波佐見町の自然とともに、家族や地域の人々との温かな絆の中で過ごした子供時代のエピソードは、当時を知る人たちの共感を呼び、「”うれしくて、涙が出たばい”とか、”面白くて、もう3回目を読んでる”と言う人もいて、うれしくてね。私自身も何回も読みますけど、飽きないですものね。アハハハハ。」
おおらかに笑う深澤さん。
200部あった本はすぐに手元からなくなり、増刷することとなったのでした。
ご先祖様はどんな思いで生きたのか
自分史を書くきっかけのひとつが、ご先祖様たちの存在でした。
「深澤家は私で14代目ですが、祖父や父の話から、曾祖父まではどんな人物だったかが分かるのですが、曾祖父も含め、それ以前の先祖たち一人ひとりがどんな思いや考えを持って生きたのかについては、まったく伝えられていません。彼らがそれを書き残してくれれば、子孫に〝先祖はこんなことを考えていたのか〞って思ってもらえるのに…。」
深澤さんが特に気になったのが、江戸時代初期のご先祖さまたちでした。
深澤儀太夫勝清。
野岳湖(大村市にある人造湖/1663年完成)の築造にあたり、巨額の資金を提供した人物で、大村の偉人のひとりとしていまも語り継がれています。
「勝清は子供がいませんでしたが、その弟の勝幸には10人くらいいて、その家系の流れのひとつが我が家なのです」。
勝幸の子孫もまた移り住んだ波佐見の地で農業用の溜め池を造りました。
「地元では大堤(おおづつみ)と呼ばれています。深さも広さもある溜め池で、子供の頃よく水遊びをしました」。
300年以上も前に造られたこの溜め池は、いまも周囲の田畑を潤し、波佐見町の水源のひとつになっているそうです。
ライフワークの大堤自然公園
現在、深澤さんは自宅から軽トラックで3分ほどのところにある、大堤自然公園の手入れなどで忙しい日々を送っています。
この公園は自然を愛する深澤さんが構想したもの。
自費で「大堤」のそばにある山を購入し、11年前から仲間たちと公園づくりをはじめました。
「全国各地の桜の名所や景勝地を見て回るうちに、波佐見町に日本中の桜や紅葉などを集めた公園を造りたいと思うようになったのです。自然公園は歳月が育てるものですから、100年、200年といった長いスパンで考えています」。
この公園づくりも自分史を出す大きなきっかけでした。
「最初の頃は、資金もないのに無謀なことをやると、よく言われました」。
それでも、快く協力してくれる仲間に恵まれ、公園づくりに必要な機材や備品などを寄付してもらったり、金銭面でもだいぶん助けられたそうです。
「一緒に土木作業で汗を流したり、樹を愛でたりしてると、とても楽しくて生きてる!って感じがするんですよね」。
仲間たちがいたからこそ実現した大堤自然公園。
「みんなへの感謝の気持ちをちゃんと書き残したかった。
そして、なぜ、私が無謀と言われた公園づくりをはじめたのかについても」。
大けが、大病を経て思うこと
深澤さんは20歳のとき、農作業中に大けがをして生死の境をさまよう体験をしています。
左足に障害を負いましたが、「車の運転も、力仕事も、誰にも負けんぞーって思ってやってきました」。
そして、60歳を前にして、今度は肝炎が発覚。
長年携わった陶磁器生地製造の仕事もやめてインターフェロンによる治療を続けました。
「体はかゆいし、髪の毛は抜けるし、食欲も意欲もなくなるなど、ひどく堪えました」。
そして昨年、新薬の治療を受けたところ、経過は良好。今年春、めでたく治療を終えることができました。
「私は人様や自然に対してお陰さまで生きているという強い思いがあります。
今回の自分史で、その思いを記すことができて本当に良かったと思っています」。